米鶴酒造 伊兵衛のページ

1

10 連載bP0「この世紀を顧みて」(1)


 謹賀新年平成12年。ようこそ西暦2000年。20世紀最後の年です。 思えば昭和7年生れの私は、地球に生を受けた一人間として、大変な時代に 生きて様々な体験をし、今、世界に冠たる自由で平和で豊かな日本国の恩恵に 預かる国民として生活出来ることに、心から幸せの実感を抱いています。 ところが日本は世界からバカにされ舐められている。
 一方、酒蔵の経営者としては、誠に厳しい環境で、毎日、命を擦り減らす 思いで会社の体質改善と営業成績向上に頭を悩ましている現状であることは言う 迄もありません。
 平成12年が、良き新年でありますよう祈ること切なるものがあります。
 顧みると、黒船来航以来、白人の西欧諸国から蹂躙され殖民地化される 東南アジア諸国の中で、ただ一国、日本が敢然と立ち向かい、世界の圧迫に 心細い思いに堪え、食うものも食わず、貧しい農村では娘を売りながら、 全てを投げ打って日清日露戦争を勝利し、世界の有色人種を驚喜させた先人の 苦労と勇気には唯々敬服するしかない。しかも日露戦争の後は日本の軍事力に 脅威を感じたアメリカの日本叩きから移民の道を断たれた日本は、 日清日露戦争の 戦益の朝鮮半島と大陸に活を求めざるを得なかった。 アメリカの日本叩きは益々エスカレートし、ABCD経済封鎖ラインに 囲まれて息の根を止められそうになり、不幸にも満州日支事変から 大東亜戦争に突入した。 この間、大陸の 国民政府と共産政府の内戦と国際条約無視のゲリラ戦、 そしてアメリカの日本叩きの国民政府後押しなどが、日本との紛争を 複雑に泥沼化させた。 昭和20年敗戦。しかし、発展途上人類の二大悪癖、白人優位の人種差別と 殖民地支配は消滅した。戦って死んだ英霊諸兄よ、以て冥すべし。 悲しくも、敗戦の結果一方的に断罪された東京裁判と占領政策によって、 日本は全ての戦争の悪と罪を負わされてしまった。 これら戦後処理は国際法違反であり、日本の冤罪は晴らさなければならない。 私は昭和平成の生証人である。
この項続く)


11 連載bP1「この世紀を顧みて」(2)


 私が酒造業界に携わったのは昭和30年からである。終戦後10年。 ようやく国民がどうにか生活もメドが立ち「戦後は終わった」と宣言が なされた頃である。
 昔から山形県の蔵元は自前の杜氏が多く、杜氏組合の正式に認定された 杜氏が少ないので、当時の口の悪い豪傑風な鑑定官先生から「山形の酒は 田舎酒だ。垢抜けしない。泥臭い」と皮肉られたものだ。その頃は、 清酒が高価な貴重品なこともあって「濃醇甘口」の酒がもてはやされた 時代である。 戦後は終わったと言っても未だ東北では酒は品不足で、山形の酒がたとえ 「泥臭く垢抜けしない」感じでも「濃い酒」ならば、旨い酒として市場では 評価されていた。
 米鶴酒造もそれまでは私の父、10代伊兵衛が杜氏で地元の青年を蔵人に 育て、千石足らずの小さい酒蔵ながら抜群の品質の酒を出荷していた。 父は大阪高等工業専門学校(大阪大学の前身)醸造科卒業で、父が酒造を仕切る ようになってから品質が安定し、品評会でも評価され、「米鶴」の銘柄の高級品を 売り出したのが大正の末期である。 だから米鶴の名醸蔵の歴史は古いものではない。 「銘酒米鶴」が軌道に乗った頃、昭和の大恐慌が始まり、納税期の度に酒税が 払えなくて倒産する蔵が続出する悲惨な時代であった。
 当時の酒税制度は「造石税」方式で、年間の製造数量の実数 (アルコール度数は無関係)に課税され、年四回の納税期に支払う方式である。 従って「割り水」がきく「味もアルコール度数も濃い酒」を造ろうと 必死に努力した。「濃い酒造り」に威力を発揮したのが「大粒軟質の備前米」と、 良く溶けた「もろみ」を強力に醗酵させる「宮水(みやみず)井戸の水」である。 かくして灘、伏見地区が銘醸主産地の地位を確立した。 昭和11年、戦争のための統制経済に入り、製造数量が割り当て制度となり、 世の中は戦時の暗黒ながら、清酒業界は「良き時代」を謳歌することになる。
(この項続く)


12 連載bP2「この世紀を顧みて」(3)


 戦争に勝つために軍需品絶対優先の統制経済に入ると、生活に欠かせない 主食「米」が配給制度になる。次に趣好品ながら「無い」と誠に困る 「酒とタバコ」も配給制度だ。配給になれば「貴重品」である。 どんな酒でも「引っ張りだこ」。歩留まりを極限まで追求した、言わば粗製濫造の 「薄くて汚い風味」の酒でも、大威張りで商いできる売手市場の「良き時代」だ。 戦争が激化すると統制が厳しくなり、貴重な米の割り当てが年々減らされ、 品不足が深刻化し、精米歩合や粕歩合も制限される。 「歩留まりの良い酒造り」が奨励され、協力実行しないと非国民即ち 「敵」と見なされる。父は「こんな制限下では良い酒は造れない」と 自家田圃の保有米をこっそり注ぎ込んで、その分だけ精米歩合を増して 酒造職人の意地を通した。台所を預かる我が家の御婦人方が 「一文の得にもならないのに、折角の飯米を全部酒に注ぎ込んで困ったもんだ」 と愚痴のささやきが子供心に強く耳に焼き付いている。
 昭和20年の終戦後、混乱した世相の中、相次ぐ増税、富裕税、 財産税そして農地開放と空前のインフレに「要領の良い世渡り」の 不得手の父は、虎の子の山林を処分するしかなかった。 裏山の木を切りながら、もったいない位の品質の酒をクソ真面目に出荷し 続ける父に、同業者から奉られた川柳がある。「酒屋して財産無くす 酒造りバカ」と。戦後の東京の闇市場で、米鶴の空きビンが相当の高値で 取引された逸話は事実である。逸話をもう一つ。 昭和27年、仙台国税局長黒金泰美が衆議院に郷里米沢から立候補し、 業界挙げての選挙運動が始まる。時の大蔵大臣、池田勇人が応援にきて 赤湯温泉に宿泊した。接待に当たる赤湯酒造組合としては「勅使供応役」 に匹敵する大事件。 「良い酒を用意しろ。米鶴を持っていけ」。池田蔵相は杯を口にして 「これは特級酒か」。「いいえ、二級酒です」。蔵相は一喝「こんな 贅沢な二級酒を造っているバカは誰だ」と。
 その父はガンで昭和30年50才で突然死亡。 跡取りの11代伊兵衛は大学出たばかりの23才。音楽にうつつを抜かし 「酒蔵を継ぐのはいやだ」と駄々をこね、蔵人から「ベートーベン先生」 のあだ名を奉られるような、どうしようもないドラ息子。 有無を言わせず「酒蔵の主の座」に据えられた。
(この項続く)


13 連載bP3「この世紀を顧みて」(4)

・・ 製造見込申告書 ・・


 昭和30年9月、青二才の社長が誕生し直ぐに酒造期に入る。 最大課題は父亡き後、杜氏の仕事が出来る蔵人が育っていなかったことだ。 杜氏の第一の仕事は「酒造計画書(製造見込申告書と呼ぶ)」の作成である。 一年間の明細な酒造計画を、当時は配給制度で割り当ての原料米と 醸造用アルコール数量に基き、全部の醪(もろみ)について一本毎の 仕込配合表(この伊兵衛のページ「連載bW・酒造りの心は大自然との 調和・2」を参照。なおこの表の例は純米酒の仕込配合で、アルコール 添加酒の場合はそのアル添リットル数が記入される)を付けた計画書だ。 原料即ち玄米と白米の総キロ数、醸造用アルコールと水の総リットル数から、 製成される見込みの年間清酒総リットル数まで記載したもので、 この計画書が出来上がると、杜氏の仕事の半分は終ったも同然と言われている 重要な書類である。これを税務署に提出しないと酒造に着手出来ない。 この書類を作成出来る人材がいなかった。
 仮に全部の醪が、同じ仕込配合で造れるなら簡単なもので、小一時間 もあれば計画書は出来上がる。しかしアルコール添加酒(以下アル添酒と呼ぶ) あり、三倍増醸酒あり、小仕込みの吟醸酒があったり、同じ仕込み配合でも アル添のリットル量が変わったり、仕込み水のリットル量が変われば 別の仕込配合になる。その上、三倍増醸酒を限度 (総白米の23%以内の 厳重な規制)一杯やりたいし、貴重な割り当ての 米やアルコールを、少しでも残したら嘲笑を浴びる。 従って最後の醪には米にもアルコールにも 端数がつくから別の仕込配合になる。 仕込配合表の記号は「イロハ」のイ号から始まって最後のス号でも終わらず、 また戻ってひらがなの「いろは」まで行くこともあった。
 今になって思えば、そんなクソ真面目な手順にこだわらず、 とりあえず前年度と同じ計画書を税務署に提出して、後で「製造見込変更届」 を提出する手もあったが、そんな知恵は回るはずもなかった。 酒造組合の先輩のアドバイスに従って、米鶴酒造としては 有史以来始めて、外部から杜氏を招くことになった。 南部杜氏組合の腕の良い杜氏である。
(この項続く)


14 連載bP4「この世紀を顧みて」(5)

・・ 製造見込申告書 ・・


 外部から杜氏を招くにあたって、若造の私のことを心配して世話を やいて下さる方が三人(すべて故人)現われた。 二人は我が赤湯酒造組合の高橋義四郎理事長と多勢長兵衛副理事長の チームである。もう一人は、大事な上得意の酒販店の主人H氏 である。H氏は敬愛していた当時の東北酒造技術者の大物NT先生(故人) に杜氏の斡旋方を依頼することを強く提案してきた。 私は早速、理事長チームの御二方にこのことを話した。御二方は即座に 「それはまずい」とおっしゃる。ある蔵でNT先生に杜氏を斡旋して いただいたとき、先生はじめ関係者への謝礼と挨拶が 中々難しくて 大変ご苦労なさったということで、この地方の御指導に定評のある S先生(故人)に依頼することを薦めて下さった。私はそれをそのまま H氏にしゃべってしまった。H氏からそのままNT先生に話が筒抜けに なったからたまらない。理事長チームの御二方はNT先生からきつい お目玉を食らうことになってしまった。 酒蔵の主になったばかりとはいえ、坊ちゃん育ちの私の世間知らずの 未熟さから、親身になって指導して下さる組合の両先輩に取り返しの つかない大変な御迷惑を掛けてしまい、利害の絡む生存競争の厳しい 実社会の恐ろしさを、まざまざと思い知らされた次第であった。 NT先生は同じ東北酒造業界ではS先生の大先輩である。 すったもんだの末、組合の両先輩からS先生に泣きを入れていただいて、 目出度くNT先生S先生仲良く御両名の御斡旋により南部杜氏組合から 腕の良いT杜氏を迎えることになった。 S先生に泣きを入れさせることなど如何に大変なことであるか、 当時の鑑定官室の権威は絶大なもので酒蔵の死命も思うままで あった頃のこと、両先輩の御配慮の御苦労が偲ばれる。
 T杜氏が初めて我が蔵に見えたとき、我ながら気の利いた パフォーマンスをやったものだ。私は数点の目隠しの酒を利き 酒させてその中から「君の一番好きな酒を選んでくれ」と言った。 彼が選んだ酒は見事米鶴であった。私は狂喜して彼の手を握り 「それだ。その酒を造ってくれ」と叫んだ。
(この項続く)


15 連載bP5「この世紀を顧みて」(6)

・・ 脱税取締り ・・


 山形県の蔵元には、酒造りに従事する蔵人を自分の蔵で育成し杜氏も 自前の杜氏、或いは経営者自ら杜氏という蔵が昔から多かった。 むしろ 杜氏組合出身の正式な資格の杜氏の蔵は少数派だった。 このことは大きな声では言い憎いが、役所にとっては「具合がいいこと」 ではなかったらしい。 以下に述べることは、後で気が付いた私の一方的推理も含んでいることを お断わりしておく。検査の時、現場最高責任者の杜氏が対象になるところを、 酒蔵の主人が出てきて相手になるのでは、役所も仕事がしにくいのでは ないだろうか。  酒が貴重品で、どんな酒でもプレミアム(当時の公定価格に上乗せする法を 犯す闇値)付きで引っ張り凧の時代つまり昭和30年代までは、闇酒と称する 帳簿外の脱税酒が横行した。日雇い労働者の賃金が一日当たり300円の頃、 二級酒一升壜の価格が約500円で約半分の250円位が酒税の時代だ。 一升ビン一本を横流しすれば約250円まるまる帳場外のお金が ポケットに入るのである。 「必死になって横流しの脱税酒を捻出しようと知恵を絞った」などと言うと 不謹慎で語幣があるが、密造のドブロク酒が罷り通り、酒販店も利幅が ボロイ闇酒を血眼で探していた時代である。酒が品不足で、田舎の会合や 祝いごとでは、ドブロクが出されるのが当たり前で警察官も一緒に飲んでいた。 悪質なドブロク大量密造地域では官憲の取締りが日常茶飯事で、 ドブロク狩り名人の辣腕税務署員が 懸賞金付きで生命が狙われ、 秘密裏に転勤させられた話も実際にあった。当然酒蔵も取締りの 対象になる訳で、酒造りから壜詰出荷までの行程の中で、税務署員 の立合が必須条件になっている作業も多く、頻繁に税務署員が出入りしていた ものである。酒蔵の多くは「検査場」と称する税務署員専用の特別室まで 準備 していた。地元税務署との癒着を警戒してか「査察」とか「監視」と 称する税務署頭越しの本庁からの抜き打ち検査が最も厳しく、 まるで脱税の犯罪人扱いだった。ある蔵で、酒があるはずのタンク一本が 水だった等という噂が流れたこともあった。どうやら脱税被疑蔵 ブラックリスト?があったらしい。
(この項続く)


16 連載bP6「この世紀を顧みて」(7)

・・ 「歩留まりの良い造り」VS「旨い酒」 ・・


 役所にとっては、酒蔵に正規の杜氏が居ないと都合が悪いことが、 もう一つあったのではないかと私は推察している。
それは「歩留まりの良い酒造りの指導」である。私が業界に携わった昭和30年 は、経済白書で「もはや戦後にあらず」と宣言された年で、「住」は 満足とは言えなくとも「衣・食」は凌げる状態になり、戦後の混乱期は 乗り越えたと大略認識した頃である。 しかしながら米は未だ貴重な統制品で、酒米は割り当ての配給制度であり 従って酒もかなり深刻な品不足であった。
酒造の指導にあたる国税局鑑定官室の先生は「国策の歩留まりの良い酒造」 を心掛ける。つまり精米歩合も粕歩合も指導基準をクリアーするように求めた。 当時、市況は品不足とは言いながら、年々市場における競争が迫る時代の流れで、 品質競争が幕を開けつつあった。その頃清酒は高価な貴重品で、濃い酒甘い 酒が高く評価された。
歩留まりを良くすると一般的には「薄い、辛い、汚い」酒になりやすい。 品質を高めるには歩留まりを犠牲にするしかない。精米歩合を低くし (白く磨く)粕を多く出すのが品質を良くする正攻法である。
特に「甘い酒」にするには、糖原料を使用する「三倍増醸」を限度 いっぱい造っても追い付かず「甘酒四段仕込み」という歩留まりを悪く する手法を採らざるを得ない。同時に「四段仕込み」は健全な酒造り からは遠ざかる傾向にあり雑菌に汚染されやすくなる。
酒蔵の主人は良い酒を造れと言う。杜氏は儲かる酒を造らないと評価が 下がる。国税局の先生からは歩留まりの良い健全な酒造が求められる。 杜氏は板挟みで頭を抱えて悩む。 結局「先生の指導により四段はできません」ということになる。即ちジンクス ”役所の指導に忠実なれば旨い酒から遠ざかる”が囁かれる。
戦後の混乱した統制時代の宿命であろう。先生の指導に盾突いて、 歩留まりを落とす決断が出来るのは、経営者が杜氏を兼ねている酒蔵であろう。 かかる蔵は、先生もさぞかし指導しにくかったであろう、と当時を 振り返って同情を禁じ得ない次第である。

(この項続く)


17 連載bP7「この世紀を顧みて」(8)

・・ 新米社長は「裸の王様」 ・・


昭和30年代、春、大学を卒業したばかりの23才の世間知らずの青二才社長の当時の言動を振り返って、 冷汗たらたら、よく持ちこたえたものだと思う。
配給制度の厳しい統制下で商品も一級と二級の二種類だけ。酒造りは米の仕入からビン詰め出荷まで 全て税務署の監督の下でガラス張り。
しかし営業は自由化の時代に入って広告合戦が始まった頃である。酒販店の店頭看板、新聞広告、 お祭りの協賛や広告等など、いろんな営業セールスマンがやってくる。原則として「今までどおり」 を踏襲することで、新しいことはやらない方針だが、そんなマニュアルが通用しないことが少なくない。 特に戦後、雨後の竹の子のように乱立した、本当に出版しているかどうか判らないような新聞の、広告や購読 は断ればよいのだが「あっさり断ると後が怖い」と教えてくれる人がいたりする。事実断ると「おどし」 とも受け取れる科白を言うのも居る。「適当に付き合っていればよい」などと言われても、その「適当」 がわからない。あるいは自動車の売込にきて「新車に交換した方が得だ」「今契約すると特別な条件が出せる」 等と言われるとその気になってしまう。新米若社長は、舌先三寸で陥落させる勉強台として格好のカモネギ 標的だったのであろう。
中小企業の同族会社で突然死のオーナー社長の後任については中々難しい。論理的には社員から抜擢すべきだが、 同族会社では反乱が起きる可能性が高い。その社員を養子に入籍するくらいの覚悟がないと、他の社員は 納得しがたい。次の選択は未亡人である。無難で(無責任で)日本的だが母はその気がなかった。 最後は昔の殿様のように御曹司の昇格だ。これも無責任だが、私がなまじっか男気をだしてその気になった からしかたがない。ベテランの幹部たちが補佐をするから大丈夫なはずだったが、結果は裸の王様に近かった。
この場合の正解は今思うに「三年間はバカ社長に徹する」ことだ。絶対に例外なく、その場では即答しない。 「後で返事します」の一点張り。「あいつは何も出来ないデクの坊社長だ」との悪態に耐えて平然と「バカ社長」 を三年間やり通せば、大物である。
(この項続く)


18 連載bP8「この世紀を顧みて」(9)

・・ 返品騒動 ・・


腕の良い南部杜氏を迎えての酒造りが始まった。杜氏はお気にいりの部下として 役人(「やくびと」と呼ぶ)を二人(麹担当と酒母担当、夫々「麹屋」「酒母屋」と呼ぶ) 連れてきている。年配の麹屋の腕前には我が蔵人も一目置いて「良い杜氏さんと やくびとに恵まれた」と喜んでくれて一安心。私が試した目隠しテストで杜氏が 選んだのが見事「米鶴」だったから私は杜氏に全てを任せてある。杜氏は先ず酒蔵の 清掃殺菌を徹底的に行なった。大量の麹蓋(麹を育てる一升の大きさの杉の木箱)を 全て釜で煮沸してから乾燥させて使う徹底ぶりだった。実地指導の国税局鑑定官室の 先生も「立派な酒造りだ」と評価が高かった。
年が明けて品評会の季節になった。 山形県の品評会で驚く勿れトップを競う成績を挙げた。それまで米鶴は市販酒は 抜群の評価を得ていたが、品評会では必ずしも話題になるほどの良い成績とはいえなかった。 先生や業界の諸先輩から祝福を受け「お前は親父より良い酒を造った」などと誉められて 有頂天であった。母が涙を流さんばかりに喜んでくれた。
酒造りも無事終了して春になり、 市販酒が古酒(夏を越した熟成酒)から新酒(その年の造ったばかりで夏を越す以前の 若い酒)に切り替わる季節になった。先生から絶賛されたとはいえ、新酒への変わり目は 慎重にしなければと、杜氏にも念を押した。出荷をはじめたら、お得意様から苦情がきた。 酒がまずいという。「新酒だからしばらく我慢してくれ」と大して気にもせず出荷を 続けた。当時は酒は品不足でどんな酒でも飛ぶように売れた時代である。東京や北海道の 大消費地からリュックに札束を詰めてプレミアム付きの高い闇値で買いに来ていた 頃である。「地元に売る奴はバカだ」とささやかれた。地元に闇値で売ったのでは 直ぐバレル。「地元に売るのに輪をかけて配達するバカがいる」と噂された。 わが米鶴のことである。ダットサントラックが一台あって大事なお得意様に配達していた。
夏越した頃から返品が来だした。「この酒は米鶴ではない。本物の米鶴と取り替えてくれ」 という。返品が相次いでたちまち返品の山が築かれて青くなった。

   
(この項続く)



19 連載bP9「この世紀を顧みて」(10)

・・ 返品騒動A ・・


亡父が歩留まりを犠牲にして心血を注いだ米鶴は「やや濃いそして甘口」の芳醇な酒である。どうやら、それが淡麗辛口の吟醸酒タイプになってしまったらしい。
国税局の先生方は絶賛しても客は「なんだこんな薄辛い酒、これは米鶴ではない」と承知しない。御愛飲家は酒造りの設計が間違って味が変わったとは思わない。

「米鶴の若旦那、酒が足りないから何処かから安い酒を買ってきて、混ぜて売っているに相違いない。これは米鶴でないから返す。本物の米鶴をくれ」との注文である。 返品の山は増えるばかり。酒の味に対する苦情の電話が、相次ぎ、電話が鳴ると母は血圧が上がる有様。対策としては比較的甘い酒、濃い酒の比率を高めて調合し直して再びビン詰め、 出荷するしかない。それがまた返品になる。私は分析室で酒と格闘しながら分析結果の数値と睨めっこ。しかしいくら分析値で説明しても味が違うと言われればどうしようもない。 若旦那は商売の難しさ、お金を払って買ってくださるお客さんの怖さが身に染みた。どんな酒でもプレミアム付で飛ぶように売れた時代に、天下の銘酒米鶴の、先生から絶賛された酒が全く売れない。 思えばこれがドラ息子にとって最良の薬となった。「やっぱり自分でやらなければ駄目かな」と覚悟を決め本気で勉強を始めるきっかけである。あらゆる機会をとらえて研修し、どのような講習会でも必ず主席し、 岩手の杜氏の自宅に宿泊して南部杜氏講習会にまで参加した。私の場合、国税局醸造試験所に行かなかったのがむしろ幸いで良い結果を生むことになった。なぜならば醸造試験所で研修して帰れば先生様扱いである。   うっかり人に尋ねるわけに行かなくなる。そのため、知ったかぶりの勝手な自己流で酒造りを進めて失敗したケースがあるらしい。私の場合全く無経験だから何でも他人に率直に尋ねることができた。どんな些細なことでも頭を突っ込み教えを乞うことができた。この姿勢が鑑定官の先生に好感を持たれたらしく、諸先生方が目を懸けて親切にご指導くださった。        

   
(この項続く)


TOPページ | 会社案内 | 商品紹介 | 今月のお知らせ

伊兵衛のページに戻る