米鶴酒造 伊兵衛のページ

20 連載bQ0「21世紀の酒類業界」

・・ 日本文化危機の対策・税法改革・甲類焼酎規制 ・・



清酒の消費低迷が続いている。流通が発達して世界中の飲み物が巷に溢れ、酒消費の主流であった「民族の酒」清酒は、世界の様々な酒類にシェアを侵されている。一方清酒は、今や事実上「最もハードなアルコール飲料」となり、低濃度のビールや酎ハイに圧迫されている現状だ。これを酒文化の視点から捕らえれば「いろんな場所でいろんな酒を、雰囲気に合わせて上手に召し上がっている」わけで「酒文化は進化している」ことになるのであろうか。などと呑気なことは言って居られない。世界に誇る素晴らしい美しい清酒文化をもっと多くの人に楽しんで頂く努力を粘り強く続けなければならないのだ。
 清酒は時流に合わない強アルコールの酒だ、との声が大きいが、その濃度が一番おいしいのだから仕方ない。真の日本料理との素晴らしい組み合わせを積極的にPRし、「21世紀に合った美しい酒席マナー」の創造と普及に全力を注ぐことが急務である。
 そして、眼を飲食店街に転ずると「官官接待自粛・公務員倫理法」以来「接待は悪」のイメージで、その低調ぶりがひどく、特に高級料亭のダメージを見ると「日本料理文化」それに伴う「衣・住の文化」までが危機に瀕していると言わざるを得ない。汚職を恐れるあまり、キレイゴトの見かけの合理化「浪花節(日本的情緒)の否定」ばかりで、日本文化を衰亡させるようなことは絶対にあってはならないと思う。日本民族特有の人間関係を大切にする「おもてなし」の美風さえも消え去る運命かと心配でならない。
 欧米資本主義の物質文明に振り回されて世界の誇る民族文化
 までも骨抜きにすることのないよう、政府閣僚の奮起を期待すると同時に「税法の根本的改正」を強く訴えたい。日本沈没の恐れが囁かれる21世紀を明るい未来に転ずるためにも「交際費を経費」と認める「大人の税法」に改める時だと思う。交際費の枠が拡がれば直ちに企業の財布の紐が緩み、景気回復の速効的爆剤になるであろう。
 同時に、未成年者飲酒やアル中問題が21世紀の重要課題であることを思うとき「製造方法の正しい表示」と「甲類焼酎の規制」が論議されなければならない。
 製造方法が絡む「表示」については「酵素剤」「米粉」等がある。酵素剤は白米の「0.1%」の使用が認められ表示義務が免除されているが、今の高力価の0.1%の量は想像を超える「大量」使用で「表示義務免除は時代錯誤」と言えよう。これに該当する「液化仕込み法」は醗酵型式が「並行複醗酵」とは言いがたい、むしろ「単醗酵」型式で日本伝統の「清酒」とは違ったジャンルに属する酒である。また「米粉」は精米歩合との関係から当然表示されるべきである。これらは早急に改善しなければならない。
 さて「甲類焼酎」は近代工業スーパーアロスパスの大量生産エチルアルコールである。「酒」とは「産んだ土地柄」や「造った人柄」にこだわる民族の伝統文化である。酒が水のごとく供給される飽食の今日「大量生産アルコール」を酒として野放しで良いものか。アル中対策と絡んで「伝統の単式蒸留」にこだわる伝統文化の立場からも、再検討する時期がきたのではないだろうか。


(この項続く)   



21 連載bQ1この世紀を顧みて(11)

・・・返品騒動B・・・


 返品の山を前にして私は、先輩の教訓を思い出した。
 わが赤湯酒造組合理事長高橋義四郎(大阪高専醸造科で亡父の三年後輩の友人で、父亡き後は私の父親代わりになって御面倒になり御指導いただいた)  先輩の、私が杜氏を採用した時いただいた教訓である。「君の御父上は、酒造りの全てを御自分で仕切った酒造り名人だった。
 その父を亡くし外部から杜氏を招いたのはこの際は正解である。
 そこで杜氏を雇用するに際して大切なことは、酒造りに着手する前に杜氏と充分、念入りな打ち合わせを済ませて、造りが始まったら全てを任せることだ。
 それでも心許なくて、横からああだこうだと注文つけたい場合は、自分が全責任を負う覚悟で係らなければならない」これは今でも至言だと思う。
 私は、いち早く何が何でも酒造りを覚えるのが責務だと、自分自身に言い聞かせて勉強するしかなかった。
 夏を越し秋になり新しい酒造りが始まっても返品が続いた。
 こうなると蔵の中の体制にも摩擦が生じ、不協和音が漏れ、協調が崩れる。当時、蔵人は約20名。全員住み込みで夕食には酒がお銚子一本付く。
 食後しばらくすると、地元の蔵人の血気盛んな中堅幹部三名が、しばしば私のところに忍んできては、涙を流して訴えるのである。
 「以前は、自分たちで造って威張って売っていた。仕込配合表と米さえあればそれができるのに、今は杜氏の言いなりで売れない酒を造らされ蔵は返品の山。こんな悔しい情けないことはない。旦那、なんとかしてくれ」。
 私としてはどうしようもない。しかしそれは言えない。「なんとかするから、しばらく辛抱してくれ」を繰り返すだけ。「必ずなんとかするから」と決意するしかない。彼らのこの熱意だけが、とかく挫けようとする私の心の支えだった。
 季節が巡り三年目の造りに入る。相変らず返品が絶えない。蔵に活気がなく蔵人の私を見る目が冷たい。蔵に危機が迫っているのが判る。もう待ったはできない。決断実行しかない。



(この項続く)   

22 連載bQ2この世紀を顧みて(12)

・・・若旦那の反撃・・・


 慌ただしく暗い年末年始を越した昭和33年1月半ば「もうやるしかない」と腹を括った私は、いつもの血気盛んな中堅幹部3名「中川民衛・高橋市太郎・中川長男」(敬称略すべて故人)をこっそり集めて告げた。
 「長いこと辛い思いをさせて済まなかった。いよいよ俺が酒造りに挑戦するぞ。だが杜氏がどう出るか解らない。或いは妨害されるかも知れんが、なにが起ころうと挫けることなく頼むぞ。以前の米鶴を再現するのだ」と。
 その瞬間、急に輝きだした彼らの顔つき。座り直して背筋を伸ばし、顔を突き出して「旦那。いよいよやって呉れるか。よし任してくれ」と翔び上がって勇み立つ彼らの姿を、私は生涯忘れることが出来ないだろう。
 今まで堪え難きを耐え忍び難きを忍び、こんなドラ息子の若造に、これだけ頼りを寄せる彼らを、絶対に裏切ってなるものか。自信などないが、信頼できる子飼いの蔵人、彼らがいる。なんとしても、やってやり抜くしかない、と肝に命じた。
 私は杜氏を呼んで言った「酒蔵の主のくせに酒造りを知らないと恥ずかしいから三本ほど自分に造らせてくれないか」。
杜氏は上機嫌で答えた「旦那さんが酒造りを勉強なさることは大変良いことです。どうぞ、おやりになって下さい」。だが次に私の言った言葉がショックだったらしい。
「私がやりたいのは、貴方が初めて藏に来たとき目隠しテストで惚れ込んだ米鶴、親父の頃の昔の造りの再現だ。昔の帳簿を引っ張りだし、昔の蔵人を配置して酒造りをやるから協力してくれ」。
 夕方、杜氏が私を呼ぶので行くと、麹屋・酒母屋と杜氏の三人組が待っていた。何となく気まずい雰囲気が漂っていた。
 杜氏が口を切った「旦那さんのさっきのお話、昔の蔵人を配置して昔の造りをやるということは私達は要らないということですから、今日を限りに帰らせていただきます」ときた。
 やはり最後の切札を切ってきたか。しかし此処は踏張らなければならん。
 今、此処で尻尾を巻いたのでは本当に役立たずのドラ息子になってしまう。自分たちの酒造りの復活に燃えている子飼いの蔵人のためにも此処は男を見せなければならぬ。私としては正に乾坤一擲「清水の舞台から飛び降りる」思いで、生まれて初めて男らしい決断を下した。
 「よし判った。お前たちは帰れ。後は俺がやる」と。杜氏からの返事はなく、重苦しい沈黙が続いた。
 どうやら三人組の作戦は狂ったらしい。此処で立場が完全に逆転したことを私は知った。 
   
   
(この項続く)   

23 連載bQ3この世紀を顧みて(13)

・・・若旦那の変身・・・


しばらくの重苦しい沈黙を破って、年配の麹屋が口を開いた「まあまあ旦那さんも杜氏さんも、造りの途中で杜氏さんが帰ったなどというのは、お互いに不名誉なことですからここは私に免じて仲良くやりましょう」。
 私にとっては不名誉でも何でもない。喧嘩を先に仕掛けた方が傷つくだけだ。
 私は逸る心を抑えながら静かに「貴方がそう言うなら私も意地は張らない。ではよろしく頼むよ」と言って席を立った。
 こうして杜氏たち三人組の冷たい視線を浴びながら、私達の酒造りが始まった。
 それはもう戦争であった。もはや旦那も使用人もない。返品の山を抱え剣が峰の崖っ淵に立たされた酒藏で、お互いに裸になって背水の陣を敷き、全員命懸けで仕事に取り組む。
 こうなったら仕事というものは上手く行かないはずがない。
 これまでは「三年経っても何も出来ない我が蔵は、もうどう仕様もないな。やっぱりうちの旦那はベ−ト−ベン先生だな」と何処か捨て鉢になり半ば匙を投げかけた従業員達の冷ややかな態度が、まるで手の平を返すように一変し、私を見る目付き話す態度や姿勢もまるで別人の如く。
 言わば「必勝の信念で戦いに出で立つ、選りすぐった精鋭の軍団」と化した。ベ−ト−ベン先生は生まれ変わったのである。
 私はこの時おぼろげながら、経営者として在るべき姿の一端を肌で感じ取ることが出来た。以来、米鶴酒造には労資の壁はなく、今日の米鶴の原動力の源を此処に見出だすことが出来る。
 この造り、私が藏に入って4日目、早くも成果が現われた。
 私達の最初の麹が麹室から引き出されたとき、その出来栄えに藏は秘かに沸いた。
 当時、営業担当で返品騒ぎ以来毎日が針のむしろの元老格、斉藤定吉(故人)番頭がしみじみ語る。
 「昔、蔵さ居だから俺も心配で、時々藏を覗いて見ていだげんど、若旦那が初めて造った麹を見て正直ぶったまげだな。3年間なんぼ言っても変んねがったハイカラ麹が、一遍で大旦那の時の麹をも凌ぐような内容の豊かな、立派に爆ぜ込んだ健康優良児みでな麹に変わったずもんだも」と興奮気味。
 「この麹ならもう大丈夫だ、これで元の酒に戻るぞとあの時確信したな俺は」。「案の定、出来た酒はまさしく大旦那の酒そのものというより、もっと味も幅も"ず太い酒"で、薄辛い酒ばっかりで困ってた時、あの2本の酒の御蔭で助かったな。もしあの酒がねがったら米鶴はもう持ちこたえられながったべな。いや、見直したよ」。(当初3本仕込む予定が杜氏の嫌がらせで2本しか出来なかった。)
 自惚れてはいけない。最初の酒が狙い通りの酒になったのは、地場出身の蔵人の執念が実ったものだ。彼らは「杜氏をやれ」と命じれば尻込みするが、「仕込み配合表と米」を与えれば完璧に仕上げる熟達者ばかりである。
 無経験な青二才の若造が命懸けの勉強したからとて、三年やそこらで酒造りの杜氏が務まる訳がない。なんとかなったのは「若旦那の雄姿に奮起した子飼いの蔵人の、命懸けの取り組みによる万全の支えがあったればこそ」の成果である。

   
(この項続く)

24 連載bQ4この世紀を顧みて(14)

・・・構造改革・・・


 この年の「造り仕舞」甑倒しの祝宴は、大変な盛り上がりを見せた。子飼いの蔵人も帳場も番頭も、自分達の第一歩が見事な成果を見せ、夢と希望がいっぱい、心晴れ晴れ。杜氏達三人組も今日だけは「わだかまり」を全て洗い流し、全員互いに胸襟を開いて労をねぎらい褒め讃え、くだをまいたりする者もなく皆紳士で、宴会は最後まで格調高く、「日露戦争の旅順での激戦中、負傷者収容のため一時休戦の束の間の、敵味方入り交じっての酒盛り」もかくありなんと思わせる、感動的な宴の一夜となった。
 春が来て皆造(かいぞう;全部搾りあげて酒造りが完結すること)も済んだ4月のある日、私が出張で留守中に、子飼いの帳場係が杜氏担当の帳簿に勝手に手を付けたと、杜氏が帳場係に帳簿を投げつける事件が起きた。
 出張から帰ってそれを知り、私はここが潮時と、杜氏に解雇を申し渡した(杜氏と雇用契約の三年が丁度満了していた)。
 思えば、杜氏が最初に来社のとき「目隠しテスト」で「米鶴」を自分で選び、その香味に惚れ込んだ「腕の良い南部杜氏」が、酒造り三年目になっても「返品騒動」に何の対策も出来ないとはどうしたことか。
 「甘い酒」にするには当時の原料アルコ−ル使用事情から、三倍増醸を限度いっぱい造っても追っつかず「甘酒四段法」しか手がない。これは蒸し米で「甘酒」を造って添加する方法だから歩留まりが悪くなる。そして出来た酒が「雑菌に冒され易く・変質し易い」傾向に流される。だから「甘酒四段」は当時の国税局の「歩留まり本位・健全醗酵」の指導に楯突くことにもなり、相当の「勇気と覚悟」が要求される。
 T杜氏は「甘酒四段は正道に非ず」の主義らしい。
   役所の指導に忠実な杜氏は「甘い酒」にするのに「仕込配合と糖化酵素活性化」で解決しようと計ったが、現実はその手法では到底解決が不可能で無駄骨折りでしかない。
 清酒醸造の仕込配合に「醗酵促進型」と「醗酵抑制型」があって、前者は酒が「辛口」になるが、後者は「醗酵が穏やか」になるだけで「甘い酒」にはならない。
 「クロ−ルイオンが糖化酵素の働きを活性化する」の理屈を鵜呑みし「クロ−ル加工は食塩」の定石をそのまま用いて「もろみ」に花咲爺さんよろしく「塩撒き」をやらかしたのだ。
 酒が「塩っぱく」なって気が付き私は愕然とした。塩っぱい酒はどうにも調整不可能でまさに犯罪である。
 「返品騒ぎ」よりも重大事件だ。慌てて調べたら俵詰めの大量の塩を買っていた。「肴のいらない味付き酒」と皮肉った奴がいる。その酒は「ちょっぴり混入」して処理する他ない。
 一年経っても処分し切れずに残っていた。

   
(この項続く)

25 連載bQ5清酒蒸留本格焼酎について

・・・企画の動機・・名称の由来・・・


 焼酎ブ−ムが今度こそ本物なのか、米鶴の「清酒を蒸留」した「本格焼酎」が話題を呼んでいます。その約20年前の「誕生」に纏わるエピソ−ドをここに再現してみます。
   清酒の消費が最高を極めたのが昭和48年。以来清酒は少しずつ減少傾向の中、第1次焼酎ブ−ムは50年代後期に起きた。
 戦後30年、日本が奇跡の復興による経済的躍進の途上、酒類も供給過剰気味で消費者から厳しく選別される時代になり、真に「豊かな酒文化」の到来を予期して、伝統の「本物の焼酎の再現」を企画した。
 焼酎は本来は、清酒を蒸留したもので清酒よりも悠に貴重な酒であった。
 戦後の欠乏時代の代用品「工業的大量生産のエチルアルコ−ル」を「甲類焼酎」として供給したので焼酎は安酒の代表に成り果てた。
 九州の一部に伝統の頑固な「優れた乙類焼酎」は続いてたが、清酒を蒸溜したものはなかった。
 清酒を蒸溜する焼酎製造を開始し、当時は高級酒イメ−ジのウイスキ−・ブランデ−を意識して「40度の清酒蒸留本格高級焼酎」を世に問うた。
 さて商品の名称をどうするか。今は幻となった銘酒を現代に蘇らせるのだから、それに相応しい名前にしたい。
 「ウイスキ−・ブランデ−に勝つ」となると、先の大戦で欧米連合空軍のパイロットを恐怖に陥れた日本海軍の名戦闘機「ゼロ戦」を思い出す。
 この着想から「ゼロ戦」の設計者、三菱の「堀越二郎」技師が最後に設計し、これが実戦に供給されれば戦況が逆転するであろう「ゼロ戦の再来」と囁かれながら、三菱名古屋の発動機工場が米軍爆撃で壊滅したため、試作機だけで終戦を迎えた三菱の「幻の名戦闘機 "烈風"(れっぷう)」の名称により命名した。
 発売開始は昭和54年9月である。  「烈風」はアルコ−ル分が「40度」。「烈風」発売後、焼酎の一般的な度数の「25度」も商品化の要望があり、こちらの名称は陸軍の最後の戦闘機で大東亜決戦機と期待された中島の「四式戦闘機 "疾風"(はやて)」から命名した。
 「疾風」は量産されて実戦に参加し、戦後、米軍が栄養満点の高オクタンガソリンでテストした結果、第二次大戦の実戦に参加した世界のレシプロエンジン単発機の中で「最速最強の戦闘機」と折紙つきの、今となっては「幻の名戦闘機」である。
 「烈風」も「疾風」も米鶴酒造の「登録商標」である。

   
(この項続く)

26 連載bQ6この世紀を顧みて(15)

・・・吟醸に挑戦・・・


 杜氏を解雇して自分で酒造りをすることを誇り高く宣言はしたが、心の本音は全く自信がない。当然のことで命懸けの勉強をしたとて3年やそこらで若造が酒造りをマスタ−出来るはずがない。
何とか早く覚える方法はないか。私は開き直った。どうせ判らないならば難しいという吟醸に取り組んだほうが酒造りを会得する早道ではないのか。
「多分、安全醸造の道があって自分はその右端を行っているのか左端を行っているのか、吟醸はその道幅が狭くて厳しいのだろう」と勝手に理屈を捏ねて迷いを吹っ切ることに決めた。
 その頃知人から頂いた輸入白ワインを口にしてその香味の素晴らしさに驚嘆した。「こんな魂が吹っ飛ぶような酒がこの世にあったとは」。眠っていた若い情熱に火が点った「これに勝る清酒を造りたいな」。そして一瞬「このワインに敗けない酒を造るには吟醸しかないな」と感じた。
未熟な青二才のくせに何故吟醸なのか。多分酒蔵歴史300年の蓄積された遺伝子による本能的ヒラメキとでもいうものなのであろうか。
 たまたま同じ頃、駐日フランス大使に関わる噂が耳に入った。来日したばかりの大使が日本の民族の酒を所望したので灘大手の有名銘柄の市販酒を届けたところ「酒がこんなに甘ったるいのか。民族の酒が甘くなったということは、その民族が堕落した証拠である」と抜かしたという。悔しいが確かに痛いところを突かれた。
戦後10年ようやく飢えから開放され、品質競争の兆しが見えたが本来「旨さ」の競争であるべきところ「甘さ」の競争に陥ったきらいがあった。
当分悔しい腹立ちを我慢して「今に見ておれ」と秘かにフアイトを燃やす外無かった。 
若いロマンチスト社長にはもう一つの夢があった。蔵は小さくとも日本一を目指そう。それには品評会だ。品評会・鑑評会だけは蔵の大小の規模や、名人杜氏も駆出しの青二才も、同じ土俵で相撲が取れる唯一の機会だ。これを逃がす手はない。 かくして満足な造りもあやふやな若造の無謀な「吟醸への挑戦」が始まる。


  (この項続く)

27 連載bQ7この世紀を顧みて(16)

・・・地米70%で全国鑑評会金賞・・・


 毎年、春秋の鑑評会の季節になると若社長はそわそわして落ち着かない。四苦八苦して出来た大吟醸酒も搾ったままでは出品しても殆どものにならない。鑑評会の準備は濾過綿を数日掛けて煮沸して綿の癖を除いたり、出品用のビンを酒慣らししてビン癖の付かないビンの選別などから始まる。
いざ出荷技術の総仕上げの濾過作業が始まると若社長は他は何も手に付かなくなる。傍からはピリピリして怖くて近寄り難くなると言う。
 全く原始的な道具での濾過作業を手伝いながら、ベテランの蔵人らがつぶやく。「勿体ない、勿体ない」と。
昭和30年代半ばの当時は、今からは想像も付かない「物を大切にする」慎ましさで、貴重な大吟醸酒をジャブジャブ際限なく注ぎ込む若社長は、どう仕様もない「吟醸バカ」に見えたのだろう。
 私は口には出さなかったが「酒造りの限界に挑み、全日本選手権とも言うべき全国清酒鑑評会にチャレンジする大吟醸は、車作りにおける"F−1レ−シングマシン"と技術的価値は匹敵する。そのグランプリレ−スを俺は今闘っているのだ。最高位のグランプリ獲得のためには経費は惜しまない」の心意気であった。
 出品酒の見本を持って批評仰ぎに仙台に出掛ける「鑑定官室詣で」も度重なると先生方と友達になり、吟醸バカに明け暮れて二年も経つと「鑑評会上位入賞の仲間入り」して酒の審査員に選ばれ「先生扱い」されたり、酒の批評に生意気な口を利くようになる。
 自分で酒造りして四年目、一本しか造っていない盆栽仕込みの山田錦50%精米600sの大吟醸が失敗作で、どう調整してもものにならない。鑑評会を棄権するのも癪だから、地米で醸した市販用の普通酒から選び濾過して出品したら、これがなんと全国鑑評会で金賞受賞したのである。
「地米70%精米のアルコ−ル添加酒」で全国の錚々たる酒蔵の「山田錦の大吟醸」と互角に堂々と渡り合ったのだから自分でもびっくり。或いは出品に際し片意地張らないで「落選してもともと」の気楽な姿勢で取り組んだのが、むしろ肩の力が抜けて良い結果をもたらしたのかもしれない。
 先生にこれを告げたら「それはお前が酒を造ったのではなくて、酒に造られたのだ」つまりマグレだと一笑に付された。しかし私としては「マグレでも一度出来たことが出来ないはずはない。なんとかしてこの技術を安定したワザとして自分の身に付けることが出来ないものか」と秘かな念願の生涯の課題・目標となった。
 以来鑑評会の度に「地獄のささやき」に悩まされることになる。「いつまでも兵庫県の山田錦と熊本の九号酵母に頼っていては埒が明かない」「自分たちの米と東北の十号酵母で挑戦する根性がないのか」「自前の米でマグレでなく果たして金賞が取れるか」「そんなに金賞が欲しいか。たかが金賞。されど金賞」。
 
   
(この項続く)

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