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昔は大樽からの量り売りだった日本酒が初めて壜入りで販売されたのは
明治11年です。
量り売りは、手間が掛かるうえ、品質保持上の問題も多かったため、日本橋の問屋が
灘のメーカーと契約して売り出しました。
しかし、当時の製壜技術は未熟なため割れやすく、東京への輸送には大分神経を
使ったらしいです。
一升壜の登場は明治42年頃です。 壜形は今のものとは異なりまして、しかも、1本ずつ苞(つと)にくるみ、栓は
針金で締めていました。明治44年には、 猪口付の小型壜もあらわれまして、駅の売店を中心に好評を博しました。
日本人には、昔から酒をくみ交わす習慣があります。心の交流を図り、連帯意識を
強めるために酒をやりとりするのです。ここから自家製の酒を相手に贈り、自分の
気持ちをこの酒に託して、同じ酒を飲みあうという風習が一般化していきました。
酒には、肴をつけて贈るのが礼儀です。古来、これは
「のしあわび」と決まっていました。 不老長寿の薬貝だと信じていたうえに、「のし」
が延命に通じたからです。 これは美味で酒によく合い、乾燥品だから保存もきき、調理法も多かったです。
現在の贈りものは、中味は違っても、この「のし」
をつける習慣だけは残っているのです。
酒は「聖水」として、神事のたびごとに用いられています。
超高層ビルの地鎮祭には、日本酒が必ず登場し、
工事の安全を祈願しています。
進水式や山開き、海開きなどでも同様です。
ところで、梅雨時などに、晴天を祈る際にも身近なところで
「酒」が登場するのをごぞんじでしょうか。晴れを祈って子供たちが軒下に吊るす
「テルテル坊主」。実は、
これにも日本酒が欠かせないのです。今では古式に則って、この人形の頭に 酒をふりかける人は少ないようですが、本来は、酒でけがれをはらわないと
願いごとが神に通じないのです。
「油祝い」という女天下の行事があります。
秋の取入れの重労働で弱った身体を休めてもらおうという日です。 この日、男が台所に入り、油気の多い料理をつくります。
主に里芋や大根、人参などのどっさり入ったけんちん汁にします。
実だくさんのこの大鍋には、ここで骨休みして、これからの寒さに そなえてもらおうという、やさしい夫の思いやりがこめられています。
1年で1番食べものの豊富な時であり、また、酒もうまい時だから、 女性を上座にして大いに飲み食いするのです。昔はどこの農家にも自家製の
酒があったようです。
家康は、天下を平定してすぐ、灘と伏見の銘酒に対して
「本場の酒として江戸での販売を認める」というお墨付けを与えました。
味や品質が優れていた上、幕府がバックアップしたため、江戸市中では上方からの
「下り酒」としてもてはやされ、関東の地酒とは格段の差をつけられて
販売されました。
しかしこれには、いかにも家康らしい配慮がありました。 関ケ原以降、西からは狸おやじとして嫌われつづけていたため、
当時政治的に強い力のあった上方商人の懐柔索のひとつとして これを打ち出した、というものであります。
旧暦では七月を初秋、八月を中秋、
九月を晩秋といいますがが、月見の宴は 中秋の満月の時に行ないます。ダンゴ十五個と
実りの初物を揃え、
さらに、ススキの穂など秋の七草を月に供えます。
満月の光をあびながら、夜露のついたものを食べると長生きするという伝承が
あるため、必ず屋外でまつりました。
江戸の頃は、高台にのぼったり、川舟をくり出して賑やかな 酒宴をはりましたが、これにより隅田川界隈の料理茶屋は大繁盛し、
一夜の酒消費量は厖大なものとなりました。
「川舟や よい茶よい酒 よい月夜」 芭蕉
今、天然水がブームになっています。あの灘の「宮水」も、
日光や秩父の水などと共にパック詰めで市販され、好評を博しています。灘の酒造りに欠かせない
この「宮水」、今から150年ほど前に発見されましたが、
当時からこれを売買する一風変わった商売がありました。 宮水の井戸を持たない酒造家にこの水を売った「水屋」というのが
それです。当初は、牛車に水樽を積んでノロノロ運んでいましたが、 遠方になりますと費用もばかになりません。そこで明治になりますと
「水船」が登場しまして、量も多く、運賃も安く運べるように
なりました。「宮水」が秀れた水であることを証明する話です。
足利末期に起った「酒道」は、酒を通して精神の
修養や統一を図ろうというもので、酒の注ぎ方、飲み方、
返杯の仕方、酒膳の仕方、礼儀作法をこと細かく決めていました。 二、三の流儀があり、作法の多くに華道や茶道に通じるものを色濃く盛り込んでいましたが、
酒の席でも主従関係を重んじる時代ならではのものだったようで、封建制の消滅と共に
今はまったく途絶えてしまいました。東京農大には作法の一部と思われる古文書、
「酌の大意」が残っていますが、これが当時の酒道を
しのばせる唯一の資料です。
朝食会というといかにもモダンな感じで、西洋生まれかと思われがちですが、
実はこのルーツ、室町時代の公家の風習なのです。当時「汁講」
(しるこう)と呼ばれていた公家の私的な宴がそれです。主催する家で酒の肴となる
「汁」を用意し、汁の具は参加者が持ち寄り、
朝から日本酒を酌み交わすという、いかにも公家らしい優雅なものでした。 この宴では、女性たちも大いに酒を楽しんだようです。
室町時代の中期以降は、食文化が発達し、酒の需要も飛躍的に増えました。このころ、
「十度飲」、「十種飲」
といった酒の席での遊戯がありました。「十度飲」は飲酒量を
競い合うものですが、「十種飲」は酒の味を識別する競争でした。
このような味覚の競技は、茶の湯でも行われ、その水がどこの水か当てるのでした。
室町時代は、今日出回っている食品のほとんどが揃った時だけに、その裏を返すと、
当時の人々が味覚にかなり鋭敏だったことを物語るものです。
戦国の三大武将の酒を比較すると、 三人三様の性格が良く分かります。
信長は豪気でグイグイ飲み、酔いも早く、
酒席も乱れがちだったらしいです。
秀吉は、自分から飲むというよりも、 派手な酒盛りの雰囲気を楽しむ無邪気なタイプでした。
一方、家康の酒は、つねに度を過ごさない
ことを第一に考えた酒で、浪費や退廃をもたらさないよう気をつかい、 ほどほどに楽しんだようです。
酒の飲み方で人が分かるといいますが、正鵠を射ています。
杉玉ともいわれ、元来、酒神をまつる奈良の三輪神社の
神木である杉にちなんだものであるが、新酒ができたしるし
として、造り酒屋や酒を売る店に掲げられ、それが酒屋の看板として親しまれるようになっ
たものです。
当初は、杉の葉を束ねただけのものだったのですが、のちに玉のように装い、その作り
方は、現在では民芸品にも似たものとなっています。
酒という字は、酒壷を表わす「酉」(とり)が元字です。
古くはこの「酉」だけでも酒を意味していました。
十二支で「酉」は、10番目の10月です。
このころは穀物が実り、酒造りが始まるところから、酒の月ともいわれていました。
酒造家の間では、10月1日を酒造元旦として祝う風習がありましたが、昭和53年
に日本酒業界では、10月1日を「日本酒の日」と制定しました。
結婚式をはじめ、祝勝会、創立記念日など、おめでたい席では、日本酒の鏡開きがよく行なわれます。
酒樽のフタは、丸くて平らなことから、「鏡」と呼ばれ、
お正月の鏡モチの鏡も同じ意味です。運を開くにちなんで、鏡割りではなく鏡開きといいます。
馥郁(ふくいく)と香る酒樽の清冽な味わいは身をひきしめ、ひとつの樽から酌み交わすお酒は、
連帯感と親近感を深めるものです。
新年会や成人式などで、鏡開きが行なわれるようになったのも、こうした意味あいからでしょう。
婚礼の夫婦かための杯は、三組の杯に銚子の口を二度そっと当て、三度目に注ぎます。
新郎新婦は杯の酒を三度に分けて飲みます。杯三つとも同様にするので
「三々九度」になります。
三つの杯は「天、地、人」を示し、三はめでたい陽数、
九は同じく一、三、五、七、九の陽数の至極のため、めでたいことの頂点を示します。
このめでたさづくしの風習は、江戸の頃から行なわれ始め、
「貞丈雑記」に「酒をささとも、くこんともいうのは、
ささは三々なり、くこんは、九献なり。酒は三々九度飲むのを祝いとする故なり。
九は陽数にて、めでたき故、中国でも酒を九献ということあり」と出ています。